














Photo: Kenji Takahashi
Statement
今日と明日が全く別の世界になるという体験に慣れてしまったのかもしれない。災害によって。感染症によって。戦争によって。あらゆる唐突なカタストロフによって。現在のことしか考えられなくなるような惨禍の中では、未来は物語よりも想像しがたい。だが、どれだけ悲観的になろうが否応なく時は過ぎていくし、未来は全く想像もしなかった形で現在に降りかかってくる。それでも人間がプレイできるのは現在だけで、惨憺たる破壊が待ち受けていたとしても、現在において遊ぶしかない。未来なんて誰にもわからないという常套句は、こんなにも悲観的な響きをもっていただろうか?何が起こってもおかしくないなら、未来のシミュレーションが不可能なら、僕はシミュレーションではなくエクササイズを試みる。反復する運動によって、人間の可動域を探りながら伸縮させてみたい。インターネットという瓦礫の山にはあらゆる営みが積み重なっていて、人間を模倣するにはありあまるほどのデータがある。そこから大量の素材データを拾い集め、現実とは異なったルールでプログラムを走らせてみる。集められたばらばらなイメージはスクリーンの上で出会い、物語のようなものを紡ぎながら、混じりあい引き裂かれていく。そして寄せ集めの身体は、名前は、思い出は、元の姿とは異なるものへと変形する。その変形はどこへ向かうのか。どのような想像力によって描かれ、どのような限界があるのか。それは資本化するのか、いやすでにされているのか。飛び散ったデータを横たわる死体として悼むことができるか。立っている命として慈しむことができるか。ばらばらなものたちがつながることはできるか。あるいはそこから抜け出すことはできるか。終わりなく繰り返されるエクササイズは惨憺としたものに見えるかもしれない。だが、データのモッシュピットで変形する無機物が、想像を超えた未来の渦をどうやって泳いでいけばいいのか、僕に教えてくれる気がしている。